~ Vol.376 ~
金子みすゞさんの代表作です。
浜の喜びから一転して、海の中のかなしみに対峙させられることで、大漁とはこういうことだったのかと、あらためて深く心にとどきます。
『大漁』という詩に出合うことによって、どれだけ多くの人が、自分中心、人間優先のまなざしをひ
っくり返されたことでしょうか。私自身も、その一人です。
この詩に出合う前の私は、“私と鰮”でした。生きるためには、鰮は食べられてあたりまえと考えていたのです。しかし、『大漁』を読んで、“私と鰮”が“鰮と私”に変わったのです。自分一人で生きていたのではなく、他のいのちによって生かされていたことに気づいたのです。“私と鰮”は、“私とあなた”という自分中心、人間優先のまなざしです。“私とあなた”だと、私の位置が上にあがって、上から下へ、「どうして理解してくれないの」と、ことばをぶつけやすくなります。私があなたを理解しようとしないのに、あなたが私を理解してくれるわけがないのにです。
おたがいに相手の存在を認め、尊重するためには、相手より上にあがったまなざしを、相手のところまで下にさげないと成りたちません。だから、英語で理解するというのは、〔Understand(下に立つ)〕と書くのですね。
理解するとは、上にあがったまなざしを、下にさげること、〔Understand〕、いいことばですね。上にあがった自分中心のまなざしを下にさげたとき、人は、“あなたと私”という、うれしいまなざしに出合えるのです。
“あなたと私”というまなざしの人だから、みすゞさんは鰮のかなしみに佇めたのです。
『大漁』の中で、みすゞさんは、浜の喜びと海の中のかなしみ、目に見えることと見えないこと、生きることと死ぬことすべて“2つで1つ”で歌っています。
“2つで1つ”というまなざしで見ると初めて、大切なこと、真理が見えてくるのです。
みなさんは、昼の月を見たとき、反対側の月のない夜を思いえがいたことはありますか。残念ながら、『昼の月』を読むまで、私は一度も考えたことがありませんでした。みすゞさんはすごいなと思います。
10年ほど前に、〈ネパールみすゞ基金〉をつくり、みすゞさんの詩を好きな人たちの寄付を集めて、ネパールに2校の小学校を建設しました。ここの小学生にえんぴつを送ろうと、山口県の小学校でえんぴつを集めてくれたことがあります。このとき1人の少女が2本のえんぴつをきれいにけずって、もってきてくれたのです。
「あれっ、使っていないえんぴつを持ってきてと、先生いったよね。どうしたのかな」先生の問いに、少女はキラキラと答えました。
「ネパールの子は、えんぴつを持っていないのだから、えんぴつけずりも持っていないと思って、けずってきたの」
少女のことばをきいて、先生も私も胸がいっぱいになりました。えんぴつを持っていないということは、えんぴつけずりも持っていないということだったのですね。
このことに気づいた少女は、相手側から考えることができたのです。みすゞさんと同じです。何かをするとき、みすゞさんの『昼の月』のように、この少女のように、相手側へ思いをはせる人でありたいと思います。
〔空のおくには何がある。/空のおくには星がある。/星のおくには何がある。〕
と、7・5・7・5のリズムでスキップをふむように、奥へ、奥へと入っていって、ぱぁっと視界が広がります。その広がった視界の先にあるのは、私たちが日常忘れていた大事なことです。
〔お供の多い王様の、/ひとりの好きなたましいと、/みんなに見られた踊り子の、/かくれていたいたましいと。〕
そうです。私たちは自分側からだけ見て、王様はいつもたくさんの家来にかこまれていいなぁと、踊り子はみんなに見てもらえて、拍手をもらっていいなと、一方的に考えているのです。でもここでもみすゞさんはちがいます。目に見える部分ではなく、目に見えない王様や踊り子の気持ちに、そっと佇んでいるのです。みすゞさんはすごいな、やさしいなと深く思います。
“見える部分と見えない部分を持っている”のが人間です。
しかし、私たちは見える部分だけを見て、その人を愛したり、尊敬したりしがちです。そして、あるとき突然、見えなかった部分を見たとき、「あんな人だとは思わなかった」と失望したり、憤慨したりするのです。本当は、人を愛したり、尊敬するということは、その人の“目に見えない部分まで受け入れる”ということなのにです。
目に見える部分と見えない部分を、長所と短所といいかえることもできます。長所と短所は同じ量あるのです。短所のほうに目がいきがちですが、『みえない星』を読むと、長所の方にも目を向けたくなりますね。