東洋大学 清水 玲子
近年、「保育サービス」ということばが保育に対して簡単に使われるようになり、これから申しこもうと思っている保護者にとっては、お店で商品を選ぶように、また、レストランを探すように、インターネットなどで保育園を探すことがあたりまえのようになっています。インターネットなどで保育園を探すことは情報の入手という点では問題ないのですが、まだ子育てがこれから、という時点で保育園を選ばなくてはならず、どんな保育園が子どもにとっていいか正直よくわからない、と思う親もたくさんいるでしょう。そのため、そこについている第三者評価の結果を見たり、口コミを参考にしたり、わかりやすい保育活動をたくさんしているところがよいかなどと考えて、自分で判断しなくてはなりません。保育園に子どもを通わせていた経験があれば、何が大切か、それなりに意見ももてますが、保育の勉強をしてきたわけでもなく、子育てについても初めてで、これから子育てしていこうとしていえる人たちが、自分たちだけで選ぶこと自体に無理があるともいえます。
そして、「サービス」ということばでイメージされやすいのは、どれだけのお金を払うと、どんな保育サービスを受けられるのか、といったサービスの売り手と買い手、という関係なのではないでしょうか(サービスということばが本来、保育の商品化を意味するものであるかは専門的には議論の余地があるのかもしれませんが、一般的な実感としてはそう感じる人が多いと思います)。もちろん、お店だってその関係は対等で、お互いに良心的であるべきですけれど、保育は保護者と保育者とが共同で子どもを育てる営みであり、その内容は両者でつくりあげていくべきもので、並べられた商品とコストから折りあいをつけて買う、といったものではないはずです。
つまり、何をもって選んだらよいかの選択基準が保護者一人ひとりにわかりにくいのにも関わらず、それぞれの責任で選んだという形のなかで、子どもがどんな毎日を送ることになるのかわからない不安と、選んだからには対価に見あったサービス(?)をしてくれて当然だ、という思いを抱いて、保護者は初めて保育園と出あうことになるわけです。果たして、ここの先生たちは、わが子をちゃんと見てくれるのだろうか、十分な世話をしてもらえるのだろうか、自分が見ていない時間にどんなふうに過ごしているのか、保育者たちがどういう人たちでどんな仕事をしているのかもわからないなかで、大丈夫なのだろうか、自分の選択はまちがっていないのだろうかと大きな不安があります。それらがわからない間は、ちょっとの行きちがいでも、ちいさな傷でも、着替えの入れまちがいでも、お迎えにいったときにわが子を抱っこされていなかったということ一つでも、その不安をどんどん膨らませてしまう要因になるのです。
保育園はまず、それぞれの保護者のその出発点の不安をキャッチし、何がわかると少しは安心できるのかを、ていねいに把握するところからはじめなくてはなりません。そしてそれは、保護者が未熟だったりすることとはちがうのだと理解していなくてはならないでしょう。
それぞれの園でいろいろな工夫と努力をされていますが、この初めての不安を少しでも和らげるためには、早いうちに、できれば一日、無理でも半日、保育参加などをして保育園のようすを知ってもらい、質問などもしてもらえるとよいですね。それが全員はむずかしくても、写真やビデオ、具体的なその日のようすを知らせるお便り、壁に貼ったニュースなどで、保育園の生活とそのなかでの子どもたちの姿そのものを知ってもらうことが一番です。その際、保護者がどんな不安や思いをもっているかはわからないので、一人ひとりの子どもの姿を具体的に伝えることが大切です。ほんのちょっとした時間でも顔をあわせたらその子の姿を話題にすることを、コミュニケーションの一歩としたいですね。
ある園で、子どもがテラスにつけてあるタオルかけの端にひっかかって額を幾針か縫うけがをしたことがありました。保育園は謝り、医者への通院も保育園で行うと申し出たのですが、肝心の危ないタオルかけは何日もそのままにされていました。その保護者としてはすぐ取り替えるか、少なくともひっかける可能性のある先端にテープを巻くだけでもすぐに行うべきなのに、どうしてそういうことがなされないのかと保育園に不信感をもったというできごとでした。そのときは保護者がそのことを率直に伝えたことで、保育園側は本当にそうだったと反省し、すぐにテープを巻き、その後危なくないタオルかけに替えたということでした。それでも、先生たちと仲のよかったその保護者は、なぜ、あの先生たちがそのことに気がつかなかったのか、やはりだいぶがっかりしていました。むやみにピリピリすることは避けたいですが、専門性といえる安全確保がなされていると思えなければ、保護者にとってはすべてが危なく見えてしまうかもしれません。
二つめは、保育者の日ごろの保護者への理解の足りなさがことばや態度に表れて、トラブルになるというものです。朝のおやつのとき、遅れて登園してきた子どもに「もう少し早くおいでよ。みんなといっしょに食べよう」と言うと、お母さんに「朝、遅いのは私のせいです。そんなこと、子どもに言わんといてください」と涙を浮かべて言われました。保育者としては、子どもにとってそのほうがよいから早く来てほしいと思うので、このようなことを伝えることはまちがっていないと思われる方もいらっしゃるかと思います。でも、このお母さんのように、その家庭の生活や、親が必死で今を何とか生きているその思いをキャッチできれば、このときに出てくることばは自然にちがったものになると思うのです。このような場面を経験している保育者は案外多いと思います。この場合はすぐに、ほかの先生の助けを借りて自分の理解の足りなさを謝ったとあり、みんなで考えあえる職場であることが大切だとわかる例でもあります。
三つめは、似たようなケースですが、いつも遅いお迎えのお母さんが、たまたま早くお迎えに来たとき、子どもに「きょうは早いお迎えでよかったね。うれしいね。」と声をかけたところ、翌日の連絡帳に何ページも抗議の文章が書かれていたということを聞きました。いつも遅いお迎えだけれど、自分としては必死に急いでお迎えに来ているつもりであること、先生はだめな母親で子どもがかわいそうだと思っているのだろうけれど、精いっぱい子どもをかわいがっている、これ以上はどうにもできない、といったことが書かれていたそうです。いつもお迎えが遅いことをお母さんが気にしていたのかもしれませんし、お迎え時間の遅い親を見るまなざしが保育園全体としてどうだったのかを点検する必要があるのかもしれません。
保育者にとってみれば、二つ目と三つ目の区別は実はなかなかできません。「そんなつもりはなかった」という気持ちはどちらも同じで、自分が言ったことの何がいけなかったのかは即座に判断できないからです。そこがわからないと、本当は怒ってしまった保護者のほうが理屈にあっていないんだけれど保護者だから謝るしかないか、といった解決の姿勢になり、そのような姿勢はどこかで保護者に伝わり、保護者としては謝られてもすっきりしないという実感になりがちです。そのことを通じて、お互いの理解が少しでも深まるようにと考えたら、保護者の気持ちをもっと知ろうとするでしょう。
四つ目は、保護者がいろいろな誤解をしたり、不正確な情報などでトラブルになる場合です。これは、一つのできごとというわけではない場合も多く、人間関係にまいっていて不信感が強くなってしまっている、といった保護者側の状況によるものも多くあるため、そのこと一つで誠意を示しても、簡単に雪解けのようにはならなかったりするケースです。それでも、保育園としては、子どもを大事に受けいれて保育をしていくことをベースにしながら、保護者のことも気長に受けいれていく姿勢が必要でしょう。なぜなら子どもはそうしたおとなの間で毎日生きているからです。
どうしてそのような誤解が生じるかについては、たとえば職員間の気持ちのずれなどが要因になって、つい、親しい保護者に愚痴のようなことをしゃべったことが姿を変えておかしな情報が交錯してしまうなどといったこともあるかもしれません。これは、保育園が担任まかせにしたりせず、園としてどんなことが大切なのかを考えながら、職員としての責任の持ち方などもみんなで考えあい、学んでいく必要がある事例になるでしょう。このようなときに、頼りになる保護者会があると、保護者同士でも誤解を解くのに力になってくれたりもします。